短編『父と娘』
「・・・・・・ゅうしょくの心配はしなくてもよいので単位の取得をー」
はっと気がついて下がりかけた目線と意識を戻すと学部長だと先ほど紹介されたひとがこちらを見て落ち着きのなかにも少し苛立ちを感じさせる目線を向けていた。
「すみません」
やっちゃった、とせりなはこころのなかでつぶやいた。
大学の入学式オリエンテーションで最後に教授との面談、の予定が担当の教授がそれを忘れて帰ってしまったので学部長直々に数名と面談ということになったのであった。学部長の、というよりむしろ同席していた学生からの視線が痛かった。
春から大学生のせりなは国立に落ちてとある私大の物理学科に入学したばかりである。厳格というと違うと思うものの、父は几帳面で形式的でありながらも直観的でどこか繊細と言えるようなひとである。かといって洞察に優れるというほどでもなくまあまあ普通のお父さん、と思っているものの、さすがにこの失態を知られては叱られずにはいられないだろうと思った。
せりなは自分の名前の由来を父に聞いたことがある。名付け親は父だ。曰く「語感で決めた」そうで、そういうひとなのであるが、その性格は遺伝のものらしく、自身、こうだ、と思ったように動く性質である。彼女は幼いころから好奇心旺盛でそれは自然と自然科学や音楽のほうに向いたのであるが、天性のものというのが適切と周囲も思っている。
父子家庭であった。せりながうまれてすぐ母は死んでしまった。なので詳しいことはなにも覚えていないし、父もあまり話したがらなかったので踏み込んで聞くこともできずにいたのであった。彼女は前述のエピソードのような面もあるが、気が強いほうでもないと自分でも思っていたくらいなので聞くのが怖くもあった。
彼女のいままでの道は平坦なものでもなかった。というのも父はせりなの知的好奇心の方向にことごとく反発してきたしいまも物理学科へ入ったことに対してとても不満なのである。それは学費が高いとかそういった問題ではなく、物理学科へ行くということが彼にとっては憤懣と言ってよいほどの出来事だったのだ。彼女の家は貧しくはなかった。
せりなが本を好んで読むことは父は喜んだのだが、自然科学系の本に対してだけはよく思わないようであった。「科学者になんてなれるわけがない」「なったとしてろくなことがない」などと、彼女の進路に対しては比較的寛容なほうであった割にそちらの分野だけに関しては徹底してそうなのである。なったこともないくせに勝手なことばっかり、と反抗心もあって、父の目の届かない図書館へ行っては本を読み漁っていたのだった。というふうなので彼女は誰かから指導を受けて自然科学を学んだことはそれまでなかった。
せりなは音楽が好きである。父も昔はクラシックギターを弾いたらしいのだがいまは父のギターを見かけることすらない。彼女はポピュラー、特にロックやポップスが好きで、エレクトリックギターならコードは一通り弾けて簡単なバッキングやソロなら執れる程度でこちらも独学でうまくはない。彼女は本格的に音楽を学びたいと思い、といっても音楽雑誌のインタビューを読んで感化されたのだが、高校を中退して専門学校へ行きたいと父に言ったことがある。即刻高校で三者面談となった。成績も良いしいま辞めるのは絶対に反対だ、と父と担任から言われてしまった。専門学校の学費など出さないと言われてしまってはどうしようもなかった。
そういうわけなので大学の学費が出たのは奇跡だと思った。それほどなのであった。
性格は温和なせりなであったが、温和すぎたのか容姿やファッションセンスがぱっとしないのが原因なのか、男の子とお付き合い、なんて全く経験がなかった。母がいればもうちょっと女の子としてのアドバイスももらえたのかもなあ程度には思っていた。
帰宅すると父がいた。
「どうだったんだ」
「初日から学部長と話してね、なんか学者ってすごいオーラが出てたよ!」
「どんな話をしたんだ」
「いや~これから頑張るように、みたいなことをさーあはは・・・」
「せっかく入れたんだからできる限り頑張りなさい」
「・・・!」
まさか父からそんな言葉がでるなんて、とせりなは驚きながら談笑に華を咲かせた。楽しかった。嬉しかった。
講義へは精力的に出席した。居眠りしたのも例の件だけである。どうもあの手の話は眠くなる。空いた時間があれば図書館や家へ帰ってからもよく勉強した。家では父はもうなにも言わなかったので、集中して勉学に励むことができた。たまにギターを手に取ることもあったが以前のような熱はなかった。
春のある休みの日、
「おばあちゃんちへ行くぞ」
唐突に父が言った。
「先月も行ったよ~遠い割によく行くよね」
「いや、今日はお母さんのほうのおばあちゃんに会いに行く」
「・・・」
緊張した。母方の祖母に最後に会ったのはもう覚えていないくらい昔だ。なんで急に。
「緊張するんだけど」
「実の祖母相手になにを」
祖母の家へ来た。
「あら、せりなちゃんね。おおきくなって・・・」
こころよく迎えてくれた。
2階建てのなかなか立派な家屋である。と、父の携帯が鳴り響いた。
「悪いが所用で少し出かけてくる。仲良くやっててくれ」
そう言い残して出て行ってしまった。
「せりなちゃん、お父さんは相変わらず物理の本ばかり読んでいるのかい」
「え・・・すごい冗談ですね・・・」
「・・・?そうだ、お父さんの書斎を見てみるかい」
「書斎なんてあったんですか」
「お父さんが結婚した頃だったかね、引っ越しで本が邪魔だからちょっと引き取ってくれないかって。それで私が書斎をつくったのよ」
「そうだったんですか。見てみたいです」
自分が読書好きだし父も読書好きだったのかな、と思いながら階段をのぼって2階へ。
「ここだよ。いまじゃもう開かずの間だけどねえ」
祖母はえへへ、と笑ってみせた。
心臓の鼓動を抑えながら扉を開いた。
「!!!」
そこにはせりなの垂涎の本たちがびっしり並んでいた。
「こ、これって誰の」
「誰のってお父さんのだよ」
知ったタイトルの物理学の名著がたくさんそこにはあった。知らない本や洋書もあったがすぐに物理の本だとせりなにはわかる。
「どうして・・・お父さん大嫌いなはずなのに・・・」
「え?」
「お父さん、物理の本は大嫌いで」
背後に父が立っていた。
「・・・」
「お父さん、なんで・・・」
せりなはわけもわからず泣いていた。
一切の事情を父は話してくれた。父も昔は科学者になりたかったこと、挫折して途中でどうしてももう夢を追えなくなってしまったことを、せりなには同じ思いをさせたくなかったことを。
「どうしても諦められなかったはずなんだけどな、もう歩けなくなってしまった」
「お前はお前のやりたいようにすればいいよ。つらくなったらいつでも頼ってくれていいから。頼らないと怒るからな」
「うん」
彼女は今日も物理の勉強に忙しい。父は毎日様子を聞いてくる。過保護もいいところだよね、と思いながら机に向かう。
夢を追うには不安は絶対につきまとう。彼女もそのことは実感している。気づかないほど鈍くはない。生きている意味がわからなくなるようなときもある。それでも彼女は今日も前へ進む。