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短編『魔剤』

青年はうつ病である。四六時中気分が沈んでいる。いつも効きもしない抗うつ薬を飲んでは通学のためになんとか起きて、洗顔もろくにせず適当な服を着て電車に2時間揺られて郊外の私立大学へ通う。なんでもお金持ちのお洒落な学生が多い大学で建物も素晴らしいらしいのだが彼にとってはどうでもよいことだ。安物のチェックのシャツをよく着ていた。

 

毎日、駅のプラットホームに立っては線路に飛び込んだらどうなるだろうかと考えているようなさまなのである。彼は家を出てから大学に着くまで口を開かない。そんな気力もないのである。それに話し相手など誰もいない。必要がないのである。

 

現在、大学3年生の春である。なんでもこの地方では大学生の学年は何回生と呼ぶのが主流なようだが、彼の大学では何年生と呼ぶのが慣習である。桜が咲いているのかいないのか、どうでもよかったし景色を楽しむ余裕もない。開花がいつとか満開がいつとか関心の外、いや関心とかいうものはすでに死にかけのこころのなかで潰えているのである。

 

青年にも2年生までは学内に友人といえるのか知らないがいくらか言葉を交わす知人がいた。なかには女の子もいたらしい。しかしいまは独りである。青年が自ら関係を断ったのだ。実際のところはだんだん話すことも顔を合わせることも避けるようになってフェードアウトといったところである。ひとと関係を持つとかそういうことももう重荷だった。

 

ある日、統計力学Ⅰの講義に出ていたのだが、途中からあまりに気分が優れずまったく頭が働かなくなって話についていくのも難しくなってきた。黒板には大文字のシグマとexponetialと細々となにかが書かれているようだったがなにを意味しているのかわからなくなっていた。大勢の中で座っているのが名状しがたいくらい耐えがたく、とうとうこそこそと荷物をまとめて部屋の後ろの扉から出て行ってしまった。そのあとどうしたかは記憶にない。

 

定期試験がだんだん近づいてくる。最近周りの学生がどうやらよく口にしている単語があるようだ。それは聞こえるところには「マザイ」である。最初はどうでもいいと思っていたが、あまりに頻繁に耳にするので、少し気になってきた。どういう風に書いてどういう意味であるのか。彼はパソコンは少しくらいは使えるので、重い足取りでパソコンが置いてある情報演習室へ行き、パソコンで検索してみることにした。

 

なるほど「魔剤」と書くもののようであるが、意味がよくわからない。青年は少し熱中していたので気分の重さをそのときだけはあまり意識しなかった。しんどいのはしんどいのだが。

 

意味がひとつに収束しないようだ。だいたいは、コンビニに置いてあるようなエナジードリンクを指す場合と、日常会話で使われる「本当に?」という言葉の俗な表現である場合とがあるらしい。エナジードリンクは特に<モンスターエナジー>のことを指すことが多いようだがそれ以外でも使われるのか、よくわからない。そもそもこんな言葉の出自はどこなのだ。

 

オタク構文なるものがあるとわかった。そこが出自か知らないが、そこで使われているようである。しかしオタク構文なるものを読んでみても意味がやはりわからないのである。なにせ日本語かどうかもあやしい。「優勝」だの「セイク」だの意味不明な使われかたをしている謎な単語がたくさんだ。そりすぎてそりになるとはどういう意味なのだ。

 

ログアウトして自習室へ向かった。空きコマをひとりで潰す良い方法があればぜひ教えてもらいたいものだ。

 

エナジードリンクってそんなに効果あるのかな」無意識に口にしていた。

 

青年は向精神薬に少し詳しい。抗うつ薬より即効性があって言ってみれば少し「ハイ」になれるらしい薬があるようだ。もちろん合法だが処方箋がいる。

 

青年は医者に率直に話した。抗うつ薬だけではどうにもならない、いままで何種類もたくさん試してきた、これ以上は耐えられない、『あの薬』を出してもらうことはできないか、と。医者はしぶしぶながら、やむを得ない、と言った。

 

なんなのだこの薬は。初めて服用して30分もしないうちに手は微かに震えてくるし頭は少し痛くなる。そのまま通学の電車に乗ってバスに乗り継ぎ大学まで行った。気分はやはり重いままなのである。ただ、いままでより動ける感じがする。あと眠くならないという感じもあった。「ハイ」にはならないが身体は動く。脳だってもちろん身体である。

 

「これなら定期試験もなんとかはなるかもしれないな」

 

ただ、大きな欠点があった。効果が短い時間しか続かないのだ。そして効果が切れるころにはいつもの倍の身体の重さととてつもない辛気に襲われるのだ。必ず。

 

青年はなにか良い手はないかと考えた。ふと魔剤のことが脳裏をよぎった。薬が切れてきたタイミングで魔剤に頼ることはできないだろうか。

 

いや、あんなのはただの清涼飲料水だ。効果なんてあるはずがない。

 

定期試験がいよいよ迫ってきた。毎日のように薬を飲んで効いている間なんとか勉強し、切れ際のつらさと戦っている。だめだ、つらすぎる。それにこのペースでは・・・

 

青年は<モンスターエナジー>の並んでいる棚の前にいる。普通のものはたくさんの糖分が入っているらしい。血糖値の急激な上昇もな・・・と思い、糖分の入っていない青い缶を選ぶ。あとで知ったが青魔剤ともいうらしい。

 

「気休めなんだけどな」

周りの客がちらっとこちらを向いた。言葉に出してしまったらしい。まあいい。少し高いが一度試してみるくらいならいいだろうと、レジで205円を支払った。

 

青年は好奇心は強いほうである。店を出て、早速試してみたいと思う。しかし人がいる前で立ったまま飲むのはどうもな、と家まで持って帰った。

 

部屋で独り言はいわない性分である。口は開かないが耳は音楽を好んだ。聴く物はクラシックが多いので歌うことはない。歌曲も聴くがフランス語やドイツ語を聞いてもわからないので口にすることはない。第二外国語の成績は悪かった。

 

少し派手にプシュっと音がする。開栓してみるとなかなかに強い香りがする。炭酸の泡のはじける音も聞こえた。色もあやしそうである。

 

これは人が飲んでいいのかと思ったが、薬のほうがよほど危ういか、と思い直す。

 

冷たい金属の飲み口に口をつけてひとくち、青年は言った。

 

「魔剤!?」

 

青年は相変わらず薬を飲んでいるが、それだけでなく魔剤もたまに飲むようになった。

 

青年はうつ病である。四六時中気分が沈んでいる。

酒もタバコもやらないが気晴らし程度に魔剤だけは少し嗜むようになった。

 

定期試験がどうなったのかは誰の知るところでもない。