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死にいたる病(死にいたる病とは絶望のことである)

論理的、厳密さをもって書かれている書物ですが、同時に教化的(キリスト教的に)な側面が切り離せない著作になっています。教化的と厳密さはなるほど両立しないとは言えない、少なくともそれは証明しないといけない事項ですが、ここでは両立しうることを示している点も面白いと思います。ある程度のキリスト教のバックグラウンドはあったほうが読みやすいでしょうね。ないと読めないわけではないです。

 

弁証法的」という言葉が非常にたくさん出てくるのですが、キルケゴールのいう「弁証法的」は一意的なものでもなさそうで、都度文脈から解釈をしたいところであります。弁証法というのはあるものとそれに対立するものがあって、互いの主張や齟齬の対比を繰り返しながらより高い次元(綜合)にいたる方法みたいに理解していますが、哲学は素人なのでこのあたり読み流してください。キルケゴールはひとつの事柄だけ取り上げて弁証法的と明言してから、なにとなにがどう対立するのか示されるという書き方もあるので若干注意がいります。

 

自由は、必然性と可能性は弁証法的というのはなかなか興味深かったところです。決定論者には可能性が欠けている、必然性しかないから手も足も動かせなくて絶望している。彼は束縛されているので可能性が必要だ。いっぽう可能性だけだと、自己を規定するものが完全になくなってしまって、可能性の大海で溺れてしまうと。

私はある大学で物理学を学びたいと思っていますが、これはある程度必然性であり、また学べうる環境に少なくとも現在はあるということは可能性があるということなんじゃないかなあと思っている次第です。

 

結局、こういう書物を必要としないというか、読んで嫌悪するようなひとは自己の認識からほど遠いひとであるし、指摘すると気分を損ねるんだろうなあと記しておきます。

 

絶望といってもいろいろな形態があって、読んでいると結局すべては絶望なのではないかと思いますが、その程度については言及されています。あまりにいろいろ出てくるので把握しきれていないしいちいち書いてもいられないので重要なことではありますが割愛します。

 

畢竟、絶望にどの程度気づいているのか、自己をどれだけ認識(確立)しているかは俗世での成功や名声とは無縁なのですよね。ただ、先のことに無頓着なひとは完全に流通貨幣のようにしか世の中でやり取りされていない存在ということは同意するところです。

 

絶望はまさに絶望しつつあるという点で永遠性が絡むのですね。絶望は死へ向かう、しかし絶望している限りは死ぬこと能わないわけです。まさに絶望し続けるしかないというわけです。身体の病であれば一度罹れば罹ったのはその一度きりであるわけですが、絶望するということは常に絶望しつつあるという点で決定的に異なるというわけです。

 

まだ読了していないので、絶望とは、という提起の部分の途中までしか読めていないのですが、なかなか面白い本なので少し読んだことのまとめを兼ねて記事にします。

筆記具

これはひとによって、100円のシャーペンやボールペンでもなんでもいいっていうひともいれば、こだわりのあるひともいると思うんですよね。私は後者です。100円のペンも使いますが。今回は筆記具にこだわることの理由、目的みたいなものを書こうと思います。

 

まず、すぐに高価なものを買わなくていいです。万年筆専門店などに行くと、高級万年筆や1万円以上するシャーペン、ボールペンが置いてあって、ほとんどの場合試し書きさせてもらえます。手に取ってみてください。100円のペンと比べてみてください。それ以上はなにも言いません。百聞は一見にしかずです。

 

私が持っているのは

Pelikan M800 EF, F

Pelikan M400 EF

Pelikan D400

PARKER ボールペン,シャーペン

LAMY safari

ですね。

 

特にM800は筆記性能においてはこれを越えるものはないと断言してしまいます。専門店で調整してもらえばこれ外のペンが持てなくなります。

 

でまあ何が言いたいかというと、ペンを持ちたいと思うことは書くこと、勉強すること、記録することに直接つながるんですよ。やりたくない計算もお気に入りのペンなら手に取れてしまうみたいな。それによい品は一生ものです。愛着もわけばどんどん手になじんできます。そうするとますますペンを手に取ることが増えるというわけです。素晴らしい。

 

M800, M400は万年筆、D400は0.7mm径のシャーペン、safariはリーズナブルな万年筆です。M800が一押しですが、最初はsafariとかでも十分だと思います。安価ですが優れた万年筆です。

 

書くのが楽しいってなんて素晴らしいことでしょう!

ドビュッシー 練習曲集 主観的論考

楽譜はいちいち上げません。IMSLPなどにいくらでもあるのでそちらを参照されてください。全曲解説もしません。普段聴いているのはジャック・ルヴィエの録音です。

 

Livre Ⅰ

五本の指のための練習曲、チェルニー氏による Pour les ≪ cinq doigts ≫ d'apres monsieur Czerny》(ハ長調

調性は割とはっきりしたハ長調です。ところどころaugコードと解釈すべきか全音音階と解釈すべきかLydianと解釈すべきかというフレーズがあります。ドビュッシーらしいですね。とはいえもちろんハ長調に完全に嵌るでもなく調性外の音もたくさんあります。ラストは明瞭なハ長調でしめられます。

とても皮肉の利いた楽しい曲です。技巧的にも全体的に速いので大変かもしれないですね。私はピアノは弾くことはできないのではっきりしたことは言えませんが。

 

四度のための練習曲 Pour les quartes》(ヘ長調

4度の響きが面白く綺麗な曲ですね。リズムにも技巧が凝らされていて、音響とリズムの両面で楽しめる曲です。調性はヘ長調となっていますが、全体的に暗い感じがします。美しいです。

 

オクターヴのための練習曲 Pour les octaves》(ホ長調

力強い導入が印象的です。全体的に力強いですね。半ばからリズムが面白く変化します。その後和声ががらっと展開して美しい場面があり、決然と終わります。

 

Livre Ⅱ

装飾音のための練習曲 Pour les agréments》(ヘ長調

冒頭からいきなり美しい和音で始まります。装飾音のための、とあるように装飾的な動きがあちらこちらに見られる曲です。修飾音というものは音楽においてとても重要なのです。

 

対比的な響きのための練習曲 Pour les sonorités opposées》(おおむね嬰ハ短調

この曲のことが一番書きたかった。ドビュッシーの曲の中で最も好きな曲かもしれない。ゆらゆら~ゆらゆら~なのはこの曲集全体を通して言えることかもしれませんが、この曲はその中でも顕著なほうです。この曲はなにが素晴らしいかというと和声の美しさだと思います。そしてゆらゆらゆらめくリズムがさらに精妙さを引き立たせています。主観ですがこれほど美しい和声が散りばめられた曲は他に知りません。曲全体アンニュイな雰囲気ですが、抽象的で派手さはないものの実に耽美的です。そして最後のアルペジオ。これほど美しいアルペジオがあっていいのかという、精妙で、この素晴らしい曲全体を統括するにふさわしいものです。

 

ドビュッシーの練習曲集はショパンの練習曲集に刺激されて書かれたもののようですが、まったく音楽性が違います。別物です。ドビュッシーショパンの書法を真似て書いていたとしたら、これほどの作品にはならなかったと思います。練習曲集というとショパンが有名ですが、ドビュッシーもぜひ聴かれることをおすすめします。

 

ドビュッシーショパンの焼き直しになる必要はなかったし、ならなくてよかったと思います。

 

まだまだ未消化のこの作品、さらに理解を深めていきたいですね。

lunatic

今日は月が文字通り近いようで、魔力か妖力か重力かしらないけどが精神に影響してるのかもしれません。"lunatic"なんて単語もありますしあながち外れてないかも。

 

1分が長いです。とりあえず駄文でも書いて気を紛らわせないとどうにもならないってくらい。頭がまわらないので文章を書くのも大変なのですが。本も読めないから時間つぶしができないし…

 

lunaticでなかったら人一倍なんでもできる自負はあるんですけどね。月から重力を取り去ることができないように、私からこの錘を取り除くことは、少なくとも今日は無理なようです。

【個人的メモ】論考攻略のための基礎概念・用語の要点整理(主観含む)

1.真理関数について

命題論理:命題間の推論関係

述語論理:命題論理+∃, ∀ 述語記号により主語名辞は消去される ??

述語記号:性質や関係の表現

命題の最小単位:要素命題

要素命題を構成する最小単位:要素変項、要素定項 ?

真理関数:要素命題の論理定項の働き(要素変項を(形式的に)消去したもの ???)

 

2.像について

像:同一の事実を異なった事実(表現?)で写したもの

論理形式:事実と像が共有しなければならないもの

写像形式:像が現実を写像するときに現実と共有しなければならないもの

論理像:論理形式である写像形式

考え:命題が表現する思考内容

 

3.語る、示す

「4.1212 示されうるものは語りえない」

敷衍すると

語る→明示する(できる) ?

示す→明示できない(暗示する) ?

語り手は内容を語ることができるが、語り手の存在は暗示的であるようなもの ???

 

参考文献:高校生のための『論考』出前講義(野家啓一

最小作用の原理と経路積分

詳しい計算に立ち入ることはしません(できません)。ここではざっくりとした話をしてみたいと思います。

 

古典力学では最小作用の原理を文字通り「原理」として採用します。これは明快な議論であるけど、さて、自然は最小作用の原理をもとに変分法なんかの計算をして運動を決めているのだろうかという素朴な疑問は出てきます。そんなことはなさそうではないだろうかと思ったりもするのです。

 

そこで発想の転換をしたのが経路積分だと思います。いや私もよくわかってないのだけれど。

量子論的に2点を結ぶ経路が一意に定まらないとしたら、どうなるだろう。もう極端に、2点間を結ぶあらゆる経路が可能としてみたら。なんとなく自然な仮定に思えてきそうです。

 

これをうまいこと処理すると、結果的に最小作用の原理が再現される、「導かれる」と言ってしまってもいいかもしれませんが、これはなかなか面白い結果です。すべての経路を通ると仮定した結果、最小作用の原理と同じ古典的軌道が実現されるという考え方です。この方法だと、自然がなにか計算をして運動を決定しているというような考えはなくなり、ただ可能な経路をすべて足し合わせたら結果そうなるというとても面白い考え方です。

 

ということで、経路積分って面白そうだけど、ちょっと難しそうですよね。私はファインマンの原著にあたる自信はないです。砕けてしまいそうだし。易しい本でまずは勉強したいかなと思ったりするけど、ほかにするべきことが先にたくさんあるので、本格的に学べるのはいつになるやら。

『論理哲学論考』を読むにあたっての言葉の意味の考察1

あくまで「内容」でなく「言葉」をはっきりさせることを目的にしたいと思います。

本を手元に置かれますとわかりやすいかと思います。

以下、番号は『論理哲学論考』に振られたものです。

 

1.1

「世界は事実の総体である。事物の総体ではない。」

早速、「世界」「事実」「事物」という言葉が出てきました。

1.11、1.13、1.2にヒントがありそうです。

統合すると、論理空間(論理的に考えうるすべての空間と思います)のなかの事実が世界であり、また、世界を分割すると事実になり、事実がすべて事実であることにより規定されている。

 

事実がすべて事実により規定されている、ということから、事実というものはたんなる「事物」ではないと推論されます。

2

「事実とは事態が現実にそうなっているもの」

これはそのまま解釈してよさそうですが

2.01

「事態は対象(事柄、事物)が結合したもの」

「事態」、という言葉がまた出てきました。

2.011

ここで、「事態を構成することができるものは事物に本質的なもの」、とあります。

「事態」は「物」ではなさそうです。事物、事柄が結合したもの、事態が現実にそうなっている、という文脈から現象的なものの動機になりうるものではないかと推測されます。

2.0121、2.0123、2.0124、2.02、2.0232

このあたり「対象」という言葉が出てきますが、やはり文脈から推測するに「事物」とほぼ同義ではないかと考えられます。

2.0233

いきなり「論理形式」という言葉が出てきます。

まだよくわからないので、ずっと読み進めると

2.18

「どんな形式であっても、どの像も…なにを現実と共有している必要があるか。論理形式である。」

とあります。

ここで、事実と像が共有しなければならないもの、それが「論理形式」ではないかとなります。もう少し踏み込むと、どんな形式、像でも同一の事実を共有しなければいけないということが論理形式なのでは?となりますが少し難しいですね。

ちなみに

2.033

「形式とは、構造の可能性である。」

とあるので事態はますます混乱していくのですが、差し当たりは上記の解釈で問題はなさそうに思います。

ところで「像」という言葉をまだはっきりさせていませんでしたが、これは事実がなにかモデルに写像されたもの、と解釈するのが自然です。

 

とりあえず、ここまでの言葉を明確にできたと思います。

差し当たりこのあたりまでにしておきましょう。